(13)パソコン登場

日本語ワープロ作りたい
早くから入手、進化を確信

 

創業翌年の1980年には徳島駅の近くの「中西ビル」に事務所を借りることになった。妻・初子の実家の応接間からの移転である。ようやく会社らしくなったとはいえ、社員はまだ社長の私と専務の初子の二人だけ。それでもれっきとした会社だ。

 

「おはようございます」

毎朝一緒に出社すると、二人だけのオフィスで立ち上がって互いにお辞儀する。そうやって気持ちを切り替えるのが二人の日課だった。

オフィスコンピューター(オフコン)の仕事はなんとかリース契約が取れて回り始めてはいたが、正直なところ限界も感じ始めていた。時代はコンピューターを必要とするはずなのに、思うようには売れない。「私の営業の力が足りないばかりに……」。そう考えることも度々だった。

一方、80年代に入るとコンピューターを取り巻く環境が大きく変わり始めていた。大型のコンピューターだけでなく個人が使う卓上サイズのマシンが登場していたのだ。

米国で世界初のパソコンと呼ばれる「アルテア8800」が開発されたのが74年のこと。日本でも8ビットパソコンが登場した。例えば、79年に発売されたNECの「PC-8001」が多くのユーザーを得ていった。

81年には大阪のでんでんタウンに上新電機が3フロアからなるパソコンの大型店をオープンさせたが、性能も用途も今のパソコンとは全くの別物で世の中で広く使われるようなものではなかった。

私は早くからパソコンを入手して、BASICというプログラミング言語で簡単なゲームを作ったりしていた。当時のソフトウエア開発者たちの多くは、パソコンはまだまだ未熟で非力な機械だと評価していたようだが、私はその進化が世間で思われている以上のスピードで進むと確信していた。

いずれは「一人に一台」の時代が来るだろう。そうなったときに、パソコンには何が一番求められるだろうか。

当時、日本では文書を作るといえばペンで手書きするのが当然だった。日本語のタイプライターも存在したが、専門のタイピストが写植を一文字ずつ打ち込んでいた。

特にやっかいなのが漢字だ。当時は漢字のひとつずつに英数4文字のJISコードが割り振られており、そのひとつずつを入力する必要があった。例えば「入力」なら、「467E(入)」に「4E4F(力)」だ。

文章を書くためにはこのJISコード表を調べながら、漢字を一文字ずつ入力する必要がある。現代のパソコンに慣れた方々からは想像もできないような気の遠くなるような作業だろう。これではとても一般の方々がパソコンで文書を作ろうなどという気にならない。膨大な数の常用漢字を今のキーボードタッチのような感覚で入力できるなど、思いもつかない時代だ。

79年には東芝が日本で初めてのワープロ「JW-10」を発売したが、価格と大きさはオフコン並み。とてもではないが、一般のユーザーの手に届くものではなかった。

私は誰もが簡単にパソコンで文章が作れるような日本語ワープロを作りたいと考えるようになった。そうすれば日本人の知的生産性を飛躍的に高められるはずだ。

思うようにオフコンが売れない中で、私はひとり、そんな考えを巡らせるようになっていた。

 

「中西ビル」のオフィスにて(中央が筆者)