(16)ワープロソフト

NECが関心「チャンスだ」
期間は3カ月、徹夜続きの毎日

1983年春に東京・晴海で開かれた展示会にブースを出展していたアスキーマイクロソフト。その裏スペースを借りていたのが我々ジャストシステムだった。開発中だった日本語ワープロの「光」を、アスキーのブースに立ち寄った関心のありそうな人たちに見せるのが目的だった。

とりわけ興味を持ってくれたのがNECだった。しばらくして、アスキーから連絡が届いた。NECが開発中のパソコンに採用するという。

ただし、納期を聞いて驚いた。「10月には店頭に並べます」という。逆算すれば開発期間はせいぜい3カ月しかない。それでも我々にとっては願ってもないチャンスだ。逃すわけにはいかない。こうして始まったのが一太郎の前身ともいえる「JS-WORD」の開発だった。

その中心的な役割を担ったのが、ひとりの学生アルバイトだった。

ある日、私が北海道出張から帰ると、机の端に細身の学生がちょこんと座っていた。専務の初子に「彼は?」と聞くと徳島大学歯学部の2年生だという。「それが、すごい優秀なのよ」とも。試しに簡単なソフトを作らせてみるとすぐに飲み込んだのだという。彼が後にジャストシステムの開発陣を率い私の後継にも指名した福良伴昭君だ。

当時は初子はオーダーメードシステムなどの開発にも時間を割かれていた。JS-WORDはジャストシステムで初のワープロソフトになるが、初子に言わせれば「もしあの時、福良君がいなかったらやっていなかった」という。

こうして始まったワープロソフトの開発。プログラミングするのは初子や福良君などの技術者だ。徹夜続きの毎日。みんな若いので力尽きるとそのまま床に寝転んでしまう。そんな彼らのサポートも私の仕事だった。明け方になると当時、近くに1軒だけあった24時間営業のスーパーに買い出しに行く。朝食を作り、朝7時になると人数分をオフィスの長机に並べた。

夏になると聞こえてくるのが阿波踊りの音色だった。当時のオフィスの目の前が踊りの演舞場だったのだ。

本番に向けての練習が始まった。パソコンに向かって無心にキーボードをたたく若者たち。窓の外からは、にぎやかな楽器の音と囃子(はやし)の声が聞こえてくる。

普通なら「うるさいな」と思うかもしれないが、私以外は皆、徳島で生まれ育った者たちだ。まったく気にする様子もなく作業を進めていたことが、記憶に残っている。

こうして完成した「JS-WORD」だが、結論から言えばそれほどのヒットにもならなかった。搭載されたパソコンがNECの「PC-100」という機種だったからだ。NECがすでに販売していた「PC-9801」の方が大ヒット商品となったことが響いた。もっとも、その後すぐに我々も「98シリーズ」に対応するワープロソフトを開発して事業が軌道に乗り始めた。

話は少し遡り、「光」を開発していた83年初春のこと。初子と福良君を連れて東京に出張に行ったことがある。旧赤坂プリンスホテルの最上階のラウンジでグラスを傾けながら、私はこんなことを二人に話した。眼前には東京の夜景が広がっている。

「ここから見えるビルの明かりの全部で使われるようになったらいいよな。どうせなら日本一を目指そう」

夢物語と言うなかれ。一太郎の誕生で私の野望は実現していくのだ。

JS-WORDの設計書