(23)ワードと開戦

「アンフェアな商法」と憤り
一太郎のシェア、徐々に落ちる

プログラムのバグ(不具合)問題に揺れた一太郎のバージョン4に続き1993年4月に発売したバージョン5は、ワープロソフトとしては集大成といえる自信作だった。

 

それが過信ではなかったことは数字となって現れた。発売後わずか1週間で10万本が売れるという、日本のコンピューター業界が始まって以来の大ヒットを記録した。

しかし、時代は大きく動き始めていた。

我々がバージョン5を発売した翌月、米マイクロソフトのビル・ゲイツ会長が来日して大々的に発表したのが、OS(基本ソフト)の「ウィンドウズ3.1」だった。ゲイツ氏は自信満々に「これから1年半以内ですべてのパソコンがウィンドウズ対応になる」と宣言したという。

ただ、この時点では我々にとってそれほど脅威だとは感じなかった。彼らの日本語入力ソフトは使い勝手が良いとは思えなかったからだ。

風向きが変わってきたのが、95年11月に日本でも発売されたウィンドウズ95の出現からだ。インターネット・エクスプローラーを搭載したこともあり、発売日には秋葉原に多くの人が詰めかけた様子が各種メディアで大々的に報じられた。

そこから「ワード」との戦いが始まった。聞くところによると、ゲイツ氏はジャストシステムを名指しで「日本で唯一のライバル」と呼んでいたらしい。「ワード97」では縦書きなど日本語の機能を強化し、彼らが我々の市場を奪いにきていたのは明らかだった。

マイクロソフトについては、思うところがある。パソコンメーカーがウィンドウズを搭載する際に、当時シェアの低かったワードをセット販売するよう求めていたからだ。我々の一太郎を排除する目的は明らかだった。

パソコンメーカーは例えば一太郎とエクセルなどを組み合わせて販売することが実質的にできなくなる。米司法省に続いて日本の公正取引委員会もこの問題を指摘し、ワードのセット販売を事実上強要していたとして、98年11月には独占禁止法違反で排除勧告を出した。

だが、独禁法違反が指摘されても、後の祭りというのが率直なところだ。マイクロソフトのやり方にはアンフェアだなと憤ったものだが、我々としては現実的な対抗策を打つしかない。

そこで私は「セグメント戦略」を打ち出した。目を付けたのが学校と自治体だ。マイクロソフトが対応できないような日本企業ならではのきめ細やかな対応で、シェアを取ろうとしたのだ。

99年に発売した小学校向けの「一太郎スマイル」には、子どもたちが教室で発表するための「はっぴょう名人」という機能や、学年別に対応した漢字の変換辞書、お絵描きツールなど学校での授業に役立つ様々な機能を盛り込んだ。その後もバージョンアップを繰り返して全国の公立小学校の85%で使われるソフトに成長した。

また、官公庁向けでも営業体制を再構築した効果もあり、根強い支持をいただいた。

それでもOSとのセットで売り込んでくるワードは、我々にとって脅威だった。一太郎の店頭での人気は堅調だったが、ウィンドウズのシェア拡大とともに、徐々にシェアを落としていった。この後、私と専務の初子、それに社員たちにとっては厳しい時が続くことになった。

「Windows 95」の発売は大きな注目を集めた(1995年11月、東京・秋葉原)。