(6)就職

遠距離恋愛で毎月上京
兵庫の東芝系で設計技術者

 

1973年に入社した西芝電機は「西日本の東芝」という社名の由来の通り東芝系で、発電機器や船舶機器のメーカーだ。技術者の私はずっと設計の担当。当時はコンピューターではなく図面に手書きだ。最初の2~3年は簡単な回路設計を任されていたが、新規事業開発の部署に異動となった。

 

考案したのが、船舶で火災が起きた際の非常用消火システムだった。ガスタービンを使って海水をくみ上げて鎮火に利用するにはどうすればいいか。こんな新しいことを考える仕事が、面白かった。

ただ、西芝を選んだのは仕事の内容ばかりではなく立地が大きい。四国から出たいと思っていたが私は長男だし、いざというときには愛媛県新居浜市の実家に戻らなければならない。関西より東に行くという考えはなく、西芝がある兵庫県姫路市がほどよい位置に思えたのだ。

仕事もさることながら、駆け出し時代の思い出といえば恋人の初子が住む東京に通ったことだ。東京行きは決まって給料日の次の金曜日。夕方6時の電車に飛び乗り東京駅に着くのは夜10時ごろになる。そこから足早に中央線に乗り換えて初子の下宿がある国立駅まで向かう。

姫路駅に着く時間が少しでも遅れれば国立までたどり着けない。西芝の寮があるのは網干といって姫路市の西の方だった。いつも時間がギリギリになるので見るに見かねた同僚の加藤彰君がよく車で送ってくれた。

ちなみに加藤君は後にジャストシステムに加わり、営業部門を率いて「一太郎」の大ヒットを支えてくれた。彼には今もMetaMoJiの監査役を務めてもらっており、思えば長い付き合いだ。

東京には毎月通ったが、特に最初の頃は初めての上京だったので見るものすべてが新鮮だった。金曜の深夜に着いて土日を初子と二人で過ごす。定番のコースというものはなかったが六本木の喫茶店のテラスは二人のお気に入りだった。

私は当時からクルマが大好きで、青山にある本屋にはよく通った。フェラーリなどのエンジン音が収録されたLPがセットの雑誌が目当てで、今でも音を聞けばだいたいのクルマは特定できる。銀座は端から端まで二人で歩き、映画もよく見に行った。特別なことは何もない。月に2日だけという限られた初子との時間を、ただただ気ままに楽しんだことが、今でも良い思い出だ。

その代わりと言うべきか、毎月のようにこの2日間で有り金をはたいてしまっていた。初任給は確か5万5000円くらいだったと思うが、一度東京に行くとあとは5000円も残らない。それで1カ月を暮らすのだ。当時、電話は寮の備え付け。東京にかけるとものすごい勢いで10円玉が減っていくので、そう何度も電話できない。

幸いにして西芝の寮は食事付き。ただ、これがお世辞にもおいしいとは言えない。もちろんぜいたくは言えないが、たまには違うものが食べたい。そう思ったときに助けられたのが寮の先輩たちだった。東京通いの事情を知っているので、よく近くの居酒屋に連れて行ってくれた。高ゲタをカランコロンと響かせながら通った店の味が、胸にしみた。

こんな遠距離恋愛も2年がたった頃、私と初子は結婚することになった。ただ、互いに長男と長女だ。女系家族である初子の実家からは猛反対されることになった。

写真キャプション:

西芝電機時代の筆者