(7)新婚生活
仕事面白く不満ない日常
妻の実家の猛反対越えて夫婦に
これまでにも何度か触れたが妻の初子の実家は4代続いた女系家族だ。代々長女が婿をもらって橋本の姓を継いできた。これが私との結婚の際に問題となった。
私も長男だし、きょうだいは妹だけ。この連載の第2回で書いた通り、浮川はもとは請川と名乗り代々、大工として受け継がれてきた一族だ。私としても橋本に姓を変えるつもりはなかった。
初子の実家には結婚を反対されるだろうことは最初から分かっていた。実際、特に彼女の母方の祖母が猛反対した。それでも私にとって人生をともに歩むパートナーとして、初子以外は考えられない。妥協することはできない。ここは粘り強く話し合って二人の気持ちを分かってもらうしかないと思った。
このあたりの感覚は今の若い人たちには理解してもらえないかもしれないが、互いに譲れないことだった。
我々が頼ったのが、初子の父・昭さんだった。こうなったらもう男同士、分かってもらえるだろうと昭さんが出張で徳島を離れた時にお会いし、おばあちゃんを説得してほしいとお願いした。
昭さんも婿養子の立場だ。難しい相談だったと思う。後になって聞いたことだが困り果てて「家に帰りたくないよ」と嘆いていたそうだ。それでも引き受けていただき、私と初子は無事に結婚することができた。今でも感謝しきれない。それに、後述するがおばあちゃんも含めて橋本家の皆さんにはジャストシステムの創業期に多大な恩を受けた。
結婚式を開いたのは高松市だった。二人にとって特段の縁があるわけでもないが、新居浜と徳島という二人の実家の間にあたる。それに、式には西芝電機の上司や同僚にも出席してもらうことになる。西芝がある姫路市の位置も考えれば、高松はちょうど中間点になる。
こんな曲折をへて晴れて夫婦となった我々は、新居を西芝の寮から社宅に移した。初子は東京の高千穂バロース(現日本ユニシス)を退社して姫路市の網干にやって来た。1975年のことだ。
ただ、この社宅が戦後すぐに建てられたらしく、すでにボロボロだった。トイレはくみ取り式のいわゆる「ボットン便所」。あまりの古さに、引っ越しの際には同僚が集まって内装を修理してくれたほどだった。社宅には庭が付いていたが私は家庭菜園などには興味がない。雑草を伸ばしてご近所に迷惑にならないよう、早々に除草剤をまいてしまった。
一刻も早くこの社宅から出たいと言っていた初子は、県営住宅の抽選に当選した時にはそれはもう大喜びだった。
結局、網干での新婚生活は4年ほど続いた。当時の私の趣味はクルマだ。ホンダ「シビック」を買って休みの日にはよく山道を走ったものだ。船舶関連のシステムを設計する仕事も面白く、これといってなんの不満もない。それなのに独立を思い立ち、そんな生活が急変することになろうとは、この頃には想像もできなかった。
きっかけは初子が姫路で仕事を得たことだった。結婚してしばらくたつと地元の職業安定所に希望の職種を「コンピューターのプログラマー」と書いて応募した。その日の夜中に自宅に電報が届き仕事が決まった。東芝のコンピューターの代理店だった。ここから二人の人生はコンピューターの世界を舞台に動き始めることになったのだ。