(1)夫婦の物語

 

日本語の知的活動支える
「一太郎」や手書きシステム開発

ここ10年は夏は長野・蓼科、春と秋は東京、冬は宮古島で暮らしている。今眼前に広がるのは、どこまでも美しい東シナ海の大海原だ。都市の喧噪(けんそう)とは無縁の土地だが隠居生活を過ごしているわけではない。「人間の知的活動を支えるものを創りたい」。その思いは、あれから何も変わっていない。

6年間のサラリーマン生活に終止符を打ってジャストシステムを創業したのが1979年のことだ。当時は妻の初子とたった2人での船出だった。しゃれたオフィスを構える余裕などなく、本社は徳島市にある初子の実家の応接室だった。看板は自分たちで家の駐車場に立てた。会社らしい物など何もない。まさに裸一貫での出発だった。

思えば、あの時に眺めたのも美しい水の流れだった。関東の利根川(坂東太郎)、九州の筑後川(筑紫次郎)と並び「四国三郎」の異名を持つ大河・吉野川のほとりに立って、じっと考え込んだものだ。「どうせ生きるのなら、思い切ってこの川の流れに飛び込んでやろう」と。

当時は日本経済を2度目の石油危機が襲った直後のこと。昭和元禄と呼ばれた高度経済成長期がすっかり過去のものとなった中で、勃興してきたのがコンピューター産業だった。それが、私の目にはまさに四国三郎のごとき大河に映ったものだ。

時代は大きく移ろおうとしている。その流れの中に飛び込んでチャンスをつかもうとするのか、それとも、このまま岸辺に立って傍観者で終わるのか――。自問自答した私は、前者の道を選んだ。

それからというもの、山あり谷ありの道のりを歩んできた。それでも、あの時の決断は間違いじゃなかったと胸を張って言える。

初子と二人でつくったジャストシステムは「一太郎」という大ヒット商品を生み出した。それまでは手書きが普通だった。コンピューターで日本語の文章を作る作業を、誰でも簡単にできるようにしたことは私と妻にとって大きな誇りだ。日本人の知的生産性の画期的な向上に、私たちなりに貢献できた。

時代が1990年代後半になると米マイクロソフトの猛威にさらされた。残念ながら一太郎は徐々に市場を失っていったが、私と初子の旅はそこで終わらなかった。

2009年に現在のMetaMoJi(メタモジ)を創業し、ジャストシステムを起業した時のようにもう一度、「社長」と「専務」というコンビで再出発することにした。幸いながら、タブレットに手書きで入力するシステムは多くの方々の支持を得ることができ、現在に至っている。

40年以上前と今とでは、テクノロジーが全く異なる。それでも前述の通り、やっていることは変わらないつもりだ。もうひとつ変わらないのは、いつも隣に初子がいることだ。

これから1カ月をかけてジャストシステムで、そしてメタモジで駆け抜けてきた歩みを振り返りたい。多くの仲間たちに支えられてきた。その中でもやはり初子の存在は特別だ。周囲からはおしどり夫婦と言われたりもするが、もちろんケンカすることも度々だ。会社では今も昔も社長と専務。酸いも甘いも、大学1年の春に愛媛県松山市のキャンパスで出会った頃から、二人で味わってきた。そんな夫婦の物語にお付き合いいただきたい。

妻の初子(左)と