(2)大工の一族
科学に憧れる少年に育つ
家系にものづくりの息づかい
私は1949年5月に愛媛県新居浜市で生まれた。江戸時代に始まった別子銅山の開発とその周辺産業によって繁栄してきた町だ。今も沿海部には住友系の大きな工場が連なる工業地帯だ。ただ、私の生家がある沢津町は畑が広がる典型的な農村だった。
浮川家は代々、大工の一族だった。江戸時代はお殿様に仕える宮大工だったようだが、私が生まれた頃も建築業に就いている親族が多かった。聞くところによると、もとは「請川」と名乗っていたそうだが明治期に今の浮川に字を変えたという。
面白いのは一族で役割を分担していたことだ。私の祖父は左官を担当していた。家の勝手口をくぐると大きな土間があり、その扉を開けると祖父の左官道具がズラリと並んでいた。それぞれの技を受け継ぐ浮川一族が集まれば屋敷が建つという具合だ。
我が家は新宅と呼ばれ広い座敷があったので、夏の終わりの頃には一族の祭りを開いた。30人から40人くらいは集まっていた。
ただ、経済的に恵まれていたかというと、そういうわけでもなかった。父は機械のエンジニアだったが戦争から帰り重度の結核を患った。私が物心がついた頃から入院していた時期が長かった。
そんなこともあって、私が成長するに従って、父の兄弟が結婚するたびに家の周辺に持っていた土地はどんどん手放してしまった。我が家にとって幸いだったのが、母が仕事のできる人だったことだ。父が病気を患うと30歳になる少し前くらいから市役所に臨時職員として勤め始めたのだが、すぐに周囲から頼りにされたようで、事務職で女性初の管理職に抜てきされた。
私の人生は仕事のできる女性と縁があるようだ。大学時代に知り合い、後に二人でジャストシステムを起業することになる妻の初子は腕利きのプログラマー。彼女と出会わなければ「一太郎」も生まれなかった。二人で切り盛りしたジャストシステムは当時としては珍しく社員の半数が女性。妻の家族もしかり。初子の母、陽子さんは藍染めアーティストでつい先日もフランスの展示会に作品を出展していた。
豊かとはいえないまでも、ものづくりの息づかいが聞こえてくるような家系に生まれた。小学生の頃はありとあらゆる本を読んだものだ。よく覚えているのが小学4年の時に担任の先生が勧めてくれた雑誌「子供の科学」だ。大正13年に創刊されたという月刊誌だ。毎号、夢中で読んだものだ。
科学だけでなく国語や社会、体育、音楽も好きだったが、やはり父の影響で将来はモノを創ったり設計したりして生きていくのだろうなと思ったものだ。後にコンピューターの世界で起業する原点は、こんなところにあったのかもしれない。
そんな少年が出合ったのが放送機材だった。小学5年の頃に学校に放送機材がやって来た日のことは記憶に鮮明に残っている。マイクやレコーディング機器、ボリュームを表示する6つのパネル。当時としては最新鋭の機械に見えた。それを操作する姿がなんともカッコいいのだ。毎朝の朝礼とお昼の給食の時間には音楽を流していた。
将来、付き合う機械がコンピューターになるとはもちろん思いもしないが、テクノロジーに魅せられたあの頃の感覚は今も失ってはいない。