(8)妻、エンジニアに
コンピューター時代予感
大企業サラリーマン人生に疑問
しばらくは姫路の網干で専業主婦をしていた初子だが、やはり高校生の頃からプログラマーを目指した女性だ。仕事を探すとあっさりとシステムエンジニアとして職を得た。東芝のオフィスコンピューターの代理店だった。
請求書や納品書、給与計算などに使うコンピューターは、この頃から「オフコン」と呼ばれて徐々に企業でも使われ始めていた。初子たちプログラマーは手書きでコーディングシートにプログラムを書き、それをパンチカードに打ち込んでいく。多くの会社ではそれぞれを分業していた。現代とは作業風景がまったく異なる。
当時はアセンブラーというプログラミング言語の一種で書いていたが、地方ではまだまだ書き手も限られていた。もっとも初子の会社は小さな代理店だった。オフコンは基本的にオーダーメードの商品。顧客の要望を聞いてシステムに反映する必要がある。ただプログラムを書くだけでなく、システムをつくり上げて納入後もそれを使う顧客企業の社員を教育するといった、コンサルティングのような仕事も求められる。
コンピューター化の波は私の職場にもやって来ていた。西芝電機で船舶の電気系統の開発を担当していたのだが、親会社である東芝から毎週のように新技術に関する特許の資料が届いていた。分厚い資料のひとつずつに目を通していく。本来の仕事は設計なのだが、仕事の3割ほどが特許の調査になっていた時期もあった。
すぐにあることに気づいた。資料のうちの半分以上がコンピューターに関連するものだったのだ。私も大学の卒業論文はコンピューター・ネットワークの理論を題材にしていたし、なんと言っても自宅に帰ればプログラミングの専門家がいる。普段の仕事は船舶の設計だが、関心が向かないわけがない。
ちょうど私と初子が結婚した1975年、東芝は12ビットマイクロプロセッサーの「TLCS-12」を本格的に実用化していた。米フォード・モーターの車に搭載するエンジン制御用に開発されたもので、米国で厳しくなっていた排ガス規制に対応する目的だったが、用途は自動車に限らず産業界に広がっていく様相を見せていたのだ。
集積回路の進化がコンピューターの小型化を促し、大型で用途を特定しない汎用型のメインフレームから、小さな会社に使われるオーダーメード型へと進化していた。その先に待っていたのが誰もがコンピューターを当たり前に使うような時代の到来だ。膨大な特許資料の束と向き合ううちに、そんな時代の転換期が押し寄せようとしていることを、私はひしひしと感じていた。
そんな時に初子の会社の先輩が独立することになった。初子も誘われたのだが、その際に考えた。それまでの私は大きな企業でサラリーマンとして働くことしか考えていなかった。西芝の仕事に不満はない。でも、それだけが人生だろうか――。
ある日のこと。初子を取引先まで車で送った帰り道。幹線道路の国道2号だった。過ぎゆく景色を眺めつつ、ハンドルを握りながらこんなことを考えた。この時の光景は生涯忘れないだろう。「あの電気屋さんも、この洋服屋さんも決して大企業じゃない。日本を支えているのは、こういう小さな会社なんだ」。では、自分はどう生きるべきだろうか。29歳にして決断の時が迫っていた。