(10)営業研修
門前払い連続でもめげず
夫婦ふたり、ゼロからスタート
西芝電機を辞めて独立したのが1979年4月のことだ。妻・初子の実家がある徳島に拠点を置いて、オフィスコンピューター(オフコン)を地元の企業に売り込もうと考えた。私たち二人が販売契約を結んだのは日本ビジネスコンピューター(現JBCCホールディングス)だった。
初子の父・昭さんが地元の銀行に勤めていたことは何度か触れたが、義父の親類には東芝の役員の方がいた。その方からJBCC創業者の谷口数造さんを紹介していただいたのが縁だ。
谷口さんにJBCCの販売代理店をやりたいとお願いすると、こう聞かれた。
「ところで浮川さん、営業の経験はありますか」
「いや、まったくありません。西芝では設計一筋ですから」
「じゃ、納品書って何か分かりますか」
「え、納品書ですか? スーパーのレジでもらう紙のことですか」
これでは話にならないということで、徳島に行く前に大阪のJBCCの営業所で3カ月間、営業の研修を受けることになった。初子と一緒に大阪の中心地、天神橋筋に部屋を借りていざオフコン営業の武者修行である。ありがたいことに「もし受注できたらあなたの会社の売り上げにしてあげよう」とも言っていただいたので、「さあ、やってやるぞ」と意気が上がる。
だが、それもつかの間だった。私の研修を担当する営業マンに、あるビルの前に連れて行かれた。
「このビルの上から下まで全部の会社に飛び込み営業をかけてください」
アポなしでしらみつぶしで売り込めというのだ。躊躇(ちゅうちょ)している暇はない。言われるがままに1社ずつを回ったが、結果は散々だった。
「総務部長様に会わせていただけないでしょうか」。そう言って頭を下げても、ほとんどが受付で門前払いだ。そんな日が何日も続いた。朝から夜まで飛び込み営業の日が続く。
ごくまれに少しだけなら話を聞いてもいいという会社があった。「しめた!」と思い、喜び勇んでオフコンの話をしても、最後はあっけないものだ。「ご苦労さまですが……」。受注どころか商談の入り口にも立てない。それが正直なところだった。
ただ、心が折れたかと言われれば、そうでもない。心が折れるということはどこかに自信があるからで、当時の私には何もなかったのだ。
受付の人と少しでも話ができれば、それだけで自分の中では小さな前進である。担当の方にオフコンのカタログを見てもらい、話ができれば大いなる前進だ。私には失うものはなにもなかった。そう考えれば不毛に見えるかもしれない飛び込み営業の毎日にも、何かプラスになるものはあるはずだ。そんな思いで毎日を必死に生きていた。
そうは言っても私たち夫婦にとって勝負の地は、大阪ではなく徳島である。二人で話し合った上で研修を2カ月で切り上げて徳島に行くことにした。
私たちの会社の名前は「ジャストシステム」。大きくも小さくもなくちょうど良いという意味だ。本社は初子の実家の応接間。オフィスらしいものは何もないゼロからのスタートだ。私が社長で初子が専務。夫婦二人きりでの船出である。いつか社員が30人くらいにでもなったらすごいことだなと考えていた。