(12)オフコン
「売れた!」涙の初受注
種苗会社に仕事効率化を提案
「これからは四国の中小企業もコンピューターを取り入れていく時代になるはず」
そう考えて6年勤めた西芝電機を脱サラし、妻の初子とともにジャストシステムを立ち上げたのが1979年のことだ。意気揚々と徳島でオフィスコンピューター(オフコン)の営業を始めたが、1台も売れない日々が半年も続いていた。
カタログと手書きの提案書を持ち、白のシビックで地元企業をどれだけ回ってもなしのつぶて。我々が扱うオフコンは当時としては珍しくカタカナだけでなく漢字も使える利点があったが、価格はざっと1000万円。導入しようという会社は、そうそう現れなかった。
私が会社を辞めたのが29歳。「35歳までやってダメだったら」と考えていたが早々に厳しい現実を突きつけられた。営業に回るためのガソリン代だけがかさんでいく日々が半年ほど過ぎた頃のことだ。
私が出合ったのが吉成種苗という種や農業用品を売る地元の会社だった。その会社がちょうどビニールハウスの設計、見積もり、建設のすべてを請け負うという仕事を始めていた。
吉成種苗の営業マンは日ごろから、農家が仕事を終えて自宅に帰る頃を見計らって商談に行く。その後に会社に帰って書類を作る頃にはもう夜も遅くなっている。
特にビニールハウスとなると一年の間でも設営する時期が決まっているので、その時期には大変な忙しさになる。そこでオフコンを使って仕事を効率化できると提案した。本業の種苗は漢字が多く、JBCCの強みも生かせると思った。
私にとって運が良かったのが、当時の専務の方が京都大学の出身でオフコンのような新しい技術に関心をもってくれたことだ。私の説明を聞くとすぐに「じゃ、見積書を持ってきて」と言ってくれた。
「え、本当に?」
思わず耳を疑った。それまでの商談でも見積書の提出まで行くことはあったが、こんなにすんなりとオフコンの効果を理解してもらえたことはなかったからだ。だが、この時はとんとん拍子だった。
正式に契約してもらった日のことは生涯忘れない。ジャストシステムのオフィス、つまり初子の実家に戻り台所の扉を開けると彼女の祖母・義子さんがいた。
「注文もらいましたよ。売れました!」
開口一番、そう言いながら涙が流れる。おばあちゃんも涙が止まらなかった。初受注に成功したことを知った初子も泣き出してしまった。
実はこの時の契約はソフトも込みで850万円ほどで受けた。通常より大幅に値引きしたが、それでもようやく暗いトンネルを抜けたのだ。
受注第2号は初子の母・陽子さんのおかげ。地元の俳句の会でこんな句を詠んだそうだ。
「物思い 寝つかれぬまま 蚊帳の中」
我々二人の仕事が思うようにならず、心配でお母さんも寝付けないという意味だ。それを知った俳句友達のご主人が建設会社を経営しており、電話をいただいた。そこから商談がまとまり、めでたく契約となった。
私が売り、プログラマーの初子がお客様の要望を取り入れたオーダーメードのシステムをつくり上げていく。その後も変わらぬ夫婦の役割分担が、徐々にではあるが回り始めたのだった。