(14)かな漢字変換
妻「できるよ」 開発始動
基本ソフトレベル、誰でも入力
我々が起業にあたって日本ビジネスコンピューター(現JBCCホールディングス)のオフィスコンピューター(オフコン)を扱うことにしたのは、人の縁もさることながらJBCCのオフコンが漢字が使えたということが大きかった。徳島のような地方では、漢字が使えないと話にならないと考えたのだ。
卓上のマイコンを前に日本人の誰もが文章を推敲(すいこう)する。そんな使われ方を実現するためには、JISコード表とにらめっこするような作業は論外だ。
パソコンより前の時代のコンピューターは、メーカーが独自に開発した基本ソフト(OS)を搭載していた。パソコンになると米マイクロソフトの「MS-DOS」などが使われるようになっていた。
初子は前職でオフコンのOS開発に参加していたこともあり「日本語の入力をOSのレベルで組み込めないか」と構想していた。これが実現すれば、専門家に委ねていたかな漢字変換が誰でもできるようになる。画期的なことだ。
こんなアイデアを温めていた時に、徳島市の体育館で工業展示会が開かれることになった。我々ジャストシステムも出展したのだが、そこに取引関係があったロジック・システムズ・インターナショナルの営業部長が視察にやって来た。同社は基本的にコンピューターを直販していたが、この頃は私たちジャストシステムが唯一の販売代理店となっていたのだ。
東京から来たその部長に、私は日本語のかな漢字変換ソフトの必要性を説いた。
「うちのような田舎だと、どうしてもお客さんに求められるんですよ。御社でも用意してくださいよ」
だが、彼は大手商社から転じてきたこともあり、「技術のことは私では分からないので、東京に来てうちのエンジニアに説明してもらえませんか」と言う。東京では技術を預かる初子が説明したが、キチンと伝わっているのかどうか……。
すると、我々が徳島に帰ってからオフィスの電話が鳴った。ロジックシステムズの営業部長からだった。
「ご説明いただいたソフトですが、うちのエンジニアは『あの人たちでできるんじゃないか』と言うんですよ。自分たちも忙しいし、と」
私は受話器をおさえて、隣に座る初子に聞いた。
「自分たちでできるかって聞いてるけど、どう?」
初子の答えは「できるよ」と、明確にして簡潔なものだった。
「うちの専務が『できる』って言ってます」
私はそのまま伝えた。こうしてオフコンの販売代理店だった我々ジャストシステムは日本語ワープロソフトの開発を始めた。初子が構想した「OSレベルで日本語を入力する方式」を提供する会社へと変貌を遂げたのだ。
初子にOS開発の経験があり、パソコン向け汎用OSが出始めた時期に呼応した日本語入力の構想。そこにハードメーカーとの接点を得た。千載一遇のチャンスである。1982年夏のことだ。
この頃にはすでにジャストシステムは株式会社化しており、ソフトをつくるエンジニアも採用していた。一方で初子は日本語入力の開発に専念していた。
この成果をその年の秋に東京で開かれたデータショーで公開すると、大変な話題となった。すると、ひとつの出合いが待っていた。当時のコンピューターソフトのガリバーであるアスキーマイクロソフトだ。