(15)展示会で発表
日本語入力、反響に驚く
マイクロソフトに貴重なヒント
取引先であるロジック・システムズ・インターナショナルとのやり取りから生まれた、「OSレベルでの日本語入力」をデータショーで発表すると反響を呼んだ。ブースには米IBMの研究員が続々と押しかけてきたものだから、我々も驚いていた。ただ、開発を担う初子にはちょっとした懸念材料があった。
その頃には我々ジャストシステムはオフィスコンピューター(オフコン)の販売だけでなく酪農管理など業務用ソフトの開発も手がけるようになっていた。
その作成に使っていたプログラミング言語は「マイクロソフトBASICコンパイラー」だった。初子は「ひょっとしたらマイクロソフトに利用料を払わないといけないかも」と言う。そこで初子は東京のアスキーマイクロソフトに電話した。
「あ、四国の方ですか。ちょっと待ってください。今、古川に代わりますので」
そうして電話に出たのが古川享さんだった。後の日本マイクロソフト初代社長。古川さんは初子の説明に、「みんな勝手に(BASICを)使っているのに、あなたたちは正直ですね」と答えたという。古川さんが関心を示したのは利用料ではなく、初子の開発だった。
四国のどこかにあるロジックシステムズの代理店が日本語の入力システムを開発したという話は、古川さんの耳にも届いていたのだ。
「そうです。徳島のジャストシステムです」
初子が答えると、古川さんは日本語入力について色々と質問してきた。そして最後に「一度、うちにも遊びに来てくださいよ」と言われた。
東京に行った際にアスキーを訪問すると、古川さんは不在だった。マイクロソフトの本社がある米シアトルに、急きょ出張することになったという。代わりに対応してくれたのが、入社して4日目という人だった。その方が成毛真さん。後に古川さんの後を継いで、日本マイクロソフトの2代目社長になった方だ。
さすがに入社直後とあって、この時は成毛さんと深い話ができたわけではない。ただ、これはもう少し後のことになるのだが初子は成毛さんから貴重なヒントを得たことを、今でもはっきりと覚えているという。
「もっとニュートラルな誰でも使える普通のワープロを作らないといけないんじゃないですか」
初子が開発した日本語入力システムを発展させ、我々は大ヒット作となった一太郎を世に送り出した。
特別なキーを使わず、当時の日本語入力では使われていなかったスペースキーで変換する。私は辞書を担当した。新聞などから単語を洗い出し、よく使われるだろう順に自分の感覚で並べ直した。
私たちの思惑通りに一太郎は多くの方々に受け入れられ、当時のパソコンを使う誰もが手を触れるソフトとなった。時代が流れ1990年代後半になるとマイクロソフトが日本市場で攻勢をかけ始めた。私たちの前に立ちはだかったワープロソフトが「Word(ワード)」だった。
その販売手法について思うところはあるが、結論から言えば一太郎はワードに敗れた。ただ、一太郎の誕生の過程でライバルとなるマイクロソフトの幹部からヒントを得ていたことは知られざる事実だろう。因縁と言えばそれまでだが、運命とはかくも皮肉なものなのか。