(17)一太郎誕生

「日本一になる」願い込め
操作改善、自社ブランドで勝負

「JS-WORD」のバージョン2を出した後のことだ。開発のキーマンだった福良伴昭君が突然、会社に来なくなってしまった。

 

我々が作ったJS-WORDだったが、当時はアスキーのブランドで販売していた。福良君は「自分たちで作ったソフトなのに、なぜ自分たちの名前で売れないのか」と周囲に漏らしていたそうだ。

当時は我々もお金がなかった。宣伝して販売店に売り込むというのはハードルが高いと思っていたが、福良君が言うことももっともだった。

「せめて半分でもジャストシステムのブランドで売れないですか」。アスキーに問い合わせたが「それは無理です」とつれない返事だった。私にも自社ブランドで売りたいという強い思いがあった。

「JS-WORDはマウス主体で先進的だけど、普及するのはもっと誰でも使えるようなワープロだと思う」。先に触れた通り、アスキーマイクロソフトの成毛真さんが言っていたことが、初子には気になっていた。

その時に日本IBMから新しいパソコンにワープロソフトを搭載する話が舞い込んだ。これが1984年の「jX-WORD」だ。そこからNEC「PC-9801」対応の「jX-WORD太郎」が生まれ、その後継の「一太郎」と続く。いずれも85年に発売した。ジャストシステムの代名詞となる製品だ。

太郎という名前には、ひとかたならぬ思い入れがあった。学生時代に家庭教師で教えた高校生のうちのひとりの名前が太朗だった。

彼も優秀な子で成績は良く、関西の大学に進学した。私が初子とともに徳島で起業し、まだオフィスコンピューター(オフコン)を売っていた頃のある日、彼が亡くなったという連絡が入った。

その日は暑い日だったそうだ。近所の子どもたちを連れてフィールドアスレチックに出かけた翌日、起きてこなかったのだという。太朗君は優しい子だった。悲しくて仕方がない。それから私は、いつか「これは」というものを開発したら、その時は彼の名を借りようと考えていた。

ところが、ひとつ問題が浮上した。太郎という名称はすでに三洋電機が掃除機で使っているという。三洋に問い合わせると「我々としては問題ないんですけど」と言うものの、その掃除機の商標を沖電気工業(OKI)に貸し出すことになったので「金太郎でも桃太郎でもいいので、ちょっとだけ名前を変えてもらえないですか」と言う。

そこで考えた。自社ブランドで勝負していくこのワープロソフトは、ジャストシステムの命運を握る製品だ。それだけの技術を盛り込んだ自負もある。

「太朗君。俺たちは日本一になるぞ」

そんな願いで名付けたのが一太郎だった。パッケージは赤色に白の書。この字は私が書いた。デザイナーの文字に納得がいかなかったのだ。大学時代に書道研究会では準師範で、書には少し自信もあった。オフィスに硯(すずり)と筆を持ち込んで亡くなった教え子に心を込めて書いた。

こうして生まれた一太郎は発売直後から大ヒットした。電気店の店頭には真っ赤な一太郎のパッケージがびっしりと並べられていった。

ところで販売力のない我々がアスキーに頼らずに、どうやって全国の販売店に一太郎を並べられたのか。私たちが出会ったのが、日本ソフトバンク(当時)という生まれたばかりの会社だった。

「一太郎」の文字は自筆した