(18)大ヒット
日本語入力の「標準」作る
ソフトバンクが販売で支え
日本一を期して発売した「一太郎」は1年足らずで3万本を突破した。当時のパソコンソフトとしてはケタ違いの大ヒットだ。
ユーザーから受け入れられた理由は色々とあるかもしれないが、やはり使い勝手の良さではないだろうか。肝心のかな漢字自動変換は連文節変換といって、ひと文字ずつではなくある程度まで文章として打ち込んでから変換できるようにした。
独自に開発した変換システムは現在も使われている「ATOK」に進化させた。膨大な数の漢字を調べていき、例えば「かんじ」と打つと「漢字」や「感じ」「幹事」などと表示される。利用の頻度や文章からふさわしい「かんじ」の順を自動で選ぶのだ。それを当時のパソコンではあまり使われることのなかったスペースキーで入力する。
一言で言えば現在、皆さんが使っている日本語入力のシステムを作り上げたのだ。それも他社のソフトでも使えるようにした。今では当たり前に思われるかもしれないが1980年代半ばの当時は、そのどれもが画期的だったと自負している。私たちが自ら構想したもので、商品として創り上げていったのが、初子が率いるエンジニアたちだった。
もうひとつの秘訣が、続けざまに打ち出したバージョンアップだろう。他社が追いつけないように、どんどん進化させる戦略を採ったのだ。
そんな一太郎を販売面で支えてくれたのが日本ソフトバンク(当時)だった。コンピューターソフトの卸売りで創業したばかりだったが、この頃はまだゲームが多かった。ワープロのようなビジネスソフトに本格的に進出しようと考えていたようで、彼らにとっても一太郎を扱うメリットは大きかったのだろう。
創業者の孫正義さんは当時は慢性肝炎からの病み上がりで、他の方に一時的に経営を託していた。孫さんが社長に復帰した86年にはすでに一太郎の販売が軌道に乗り始めた頃だ。
孫さんとは公私ともに付き合いが長いが、私の数少ない趣味といえるゴルフにお誘いしたのが、この頃のことだ。最初は孫さんは「ゴルフってちょっとぜいたくな遊びですよね」と言って敬遠していたが、私は「体育だと思ってやればいいんですよ」とアドバイスした。病み上がりだけに体力強化にはもってこいだと勧めたのだ。
そんな経緯で、孫さんとは徳島でも東京でもよくゴルフをともにした。私は90年から、孫さんが立ち上げた当時は「パソ協」と呼ばれていた現ソフトウェア協会の会長を務めた。いつだったか協会のパーティーで私が皆さんにあいさつしてまだ歓談が始まったばかりの頃合いに孫さんがスッと近づいてきた。
「浮川さん、今から打ちっぱなしに行きましょうよ」
2人でこっそり会場を出ると孫さんの車が待っていた。一緒に東京・芝の練習場に行くと「このクラブ、買ったばかりなんですよ。いいでしょ」と目を輝かせていた。子どもみたいな人だなと思ったものだ。
両社での親睦ゴルフ大会では台風が直撃して大変な目にあったこともあった。ソフトバンクが94年7月に株式を店頭公開した翌日には、孫さんが初めて72のパーで回った。喜んだ孫さんが「店頭公開したことよりうれしいです」と言っていたのが、記憶に残っている。