(20)本社建設

半数女性、安心な職場に
関西・四国の優秀な人材集まる

「一太郎」の成功によって社員がどんどん増え始めた。徳島市内では社員が収まるビルがなくなったので、自社ビルを建てることにした。1987年のことだ。

 

場所は徳島市内の沖浜東。ただ、それもすぐにいっぱいになりそうだということで、本社を建設している最中に隣の畑を買い取って2号館を建てることになった。コンセプトは「リゾートオフィス」。その後もジャストシステムの社員の平均年齢はずっと20代と若く、和気あいあいとした雰囲気を残したかったのだ。

最上階につくった社員食堂は「食堂」というより、社員がミーティングにも使いたくなるようなオシャレなカフェテラスにした。

本社は夜中でもライトアップした。これは夜遅くに帰宅する社員のためだ。当時は多くの社員がマイカー通勤だった。一日の仕事を終えてオフィスを後にする時に、真っ暗な場所をトボトボと歩くより、幾分でも気持ちが良いのではないかと考えたのだ。

ジャストシステムは社員の半分は女性だった。当時としては非常に珍しかったのだが、理由は簡単だ。専務の初子もそうだが、優秀な人が多かったからだ。

そこで本社の隣には託児所をつくった。園長は社長である私。社員の中には社内結婚する者も多い。女性に安心して働いてもらうために子どもたちにとっても居心地の良い場所をつくりたいと考えた。クリスマスの日には毎年、私がサンタの格好をして子どもたちにプレゼントを配った。「パパとママが働く会社って良い所なんだな」と、子どもたちに思ってもらうためだ。

会社が大きくなるとよく聞かれたのが「なぜ東京に出ないのか」ということだ。私は愛媛の出身で徳島にこだわる理由がないように思われたのかもしれない。仕事に没頭するために地元の経済界などの付き合いにもほとんど顔を出さなかったことも、影響したのかもしれない。

私としては社員の多くが徳島で生活基盤を持っているから安易にそれを変えられないということが大きい。もうひとつ付け加えるなら、徳島に居ることは人材確保の面で優位に働いた。一太郎で知られるようになったからといっても、東京に出れば数ある新興企業のうちのひとつでしかなくなる。だが、徳島なら関西や四国の優秀な人たちがどんどん集まってくれる。この効果は絶大だ。

特に一太郎の生命線はATOK、つまりかな漢字変換の辞書機能にある。同じ字でもどんな文脈ならどんな順序で同じ読みの文字を表示していくか。今のように人工知能(AI)がない時代のことだ。きめ細やかな作業は、やはり女性の感性に頼る部分が大きかった。

この頃になると我々もメディアで取り上げられることが多くなった。でも、私と初子の生活は変わらない。初子に言わせれば私は短時間でコロコロと趣味が変わるらしい。ある時は靴に凝り、ある時は時計を集め始めるといった具合だ。ただ、私にとって変わらぬ趣味はずっと車だった。

特に好きなのがホンダだ。駆け出しの頃は小型車のシビックを愛用し、余裕ができてからはスーパーカーのNSXを購入した。創業者の本田宗一郎さんはお会いしたことはないがずっと憧れの経営者だ。ホンダは本田さんの代からずっと「らしさ」を大事にしている。初子と二人で始めたジャストシステムも、大きくなってもそんな会社にしたいと考えていた。

 

本社ビルの設計には強いこだわりがあった(1989年)