(24)バケツ型検索

デジタル文化担う自負
画期的技術買収、活用は限定的

一太郎はもともと実務文書を対象にしてきたが、ユーザー層が広がるにつれて「もう自分たちだけで辞書を提供するべきではない」と考えるようになった。日本語のデジタル文化を担っているとの責任感があったからだ。

 

そこで文筆家の紀田順一郎さんを座長に1992年に発足したのが「ATOK監修委員会」だ。ATOKは一太郎の辞書で現在も使われている。

もともとは私が新聞などを見ながらユーザーが使うだろう語順などを想定して作り、会社でも日本語学専攻の人を採用してきたが、やはり専門家の方々から規範性のある語彙選択の基準を得たことは大きな力となった。

海外でも文字コードの規格である「ユニコード」の国際コンソーシアムで、日本語の地位を確立すべく積極的に関わり、成果を残している。

一方で、新しい事業の芽の発掘に力を入れていた。96年には米ピッツバーグに研究所「JPRC」を開設した。すると、その所長から連絡が来た。「面白い技術がある」とのことだった。

当時、私が求めていたのは、ユーザーがこれまでに一太郎で作成した大量の文章を使いこなすための検索技術だった。初代一太郎を発売してからすでに10年余りがたち、企業や自治体などでは大量の文書が蓄積していた。

まさに文字の海だ。その中からその時々に必要なものを抽出する技術をつくれないものか。そう考えたのだ。

私は求める技術のことを「バケツ型の検索システム」と呼んでいた。バケツにどんどんたまっていく言葉の中から欲しい文書を見つけ出す、という意味だ。所長が見つけた「コンセプトベース」という技術が、このバケツ型検索そのものだった。

初子や研究者たちを連れてピッツバーグに飛び、実際に説明してもらうとすぐに私が求めていたものだと確信した。キーワードだけでなく文章を概念(コンセプト)のまま検索できるのが特長だ。

開発者のデビッド・エバンス氏はカーネギーメロン大学教授のかたわら会社を起こしたものの、ビジネスとして発展させることに苦心していた。私はこの会社の買収を即決した。20億円超と我々が出せる限度だったが、画期的な技術を発見したのだ。

お気づきだと思うが、このコンセプトベースは米グーグルの先を行く技術だったと思う。日本で販売を始めたのが97年7月。一方、グーグルがシリコンバレーで生まれたのが翌98年9月のことだ。

だが、当時の私はコンセプトベースを日本に、それも一太郎のユーザーに対象を絞って展開しようと考えていた。ビジネスで「たられば」を語ることは無意味だ。だが、もしあの時、最初から海外向けにも展開していればどうなっていただろうか。世界は変わっていたのかもしれない。

97年には株式を店頭公開した。これは資金調達が目的ではなく、私と初子が持っていた株式の流動性を確保する必要があると考えたからだ。だから公開後も株価に一喜一憂することはなかった。

ただ、主力の一太郎を取り巻く環境は次第に厳しくなり、上場した直後の98年3月期の決算は赤字になってしまった。すると投資家やマスコミからは厳しい指摘が相次いだ。学校や自治体向けの販売に力を入れるセグメント戦略は効果を上げつつあった。それでも、マイクロソフトによる基本ソフト(OS)とワードの抱き合わせ販売の影響は大きかった。

 

デビッド・エバンス氏(中)、妻の初子(右)と(1996年7月)