(26)卒業

悩んだ末の選択 安堵
業績悪化でキーエンスに託す

キーエンスとの業務提携の話が持ち上がったのは、2007年末から翌年にかけてのことだった。前回紹介したxfy(エックスファイ)の技術を、彼らが持つ製造業のクライアント向けに売れないかという話が発端だった。

 

この時点でジャストシステムの業績悪化はますます厳しいものとなっていた。業務面での協業の検討が進展するにつれて、私の方から出資を持ちかけた。当初は小規模な出資を受けられないかという話だった。

ジャストシステムの主力は日本語ワープロの一太郎だ。海外の投資ファンドから出資の打診を受けてはいたが、やはり日本人が使う日本語のソフトとしての役割を全うするためには、提携相手は日本企業であるべきだというのが私と初子の考えだった。

たくさんのメーカーをクライアントに抱え、財務面でも優良企業と言われるキーエンスなら申し分ない。そう考えていたのだが、ここから事態は思わぬ方向に展開していった。

08年秋に起きたリーマン・ショックが日本のみならず世界の金融市場を揺るがすと、赤字が続く我々にもその影が忍び寄ってきた。監査法人から事業の継続性に疑義ありとの指摘を受けるようになったのだ。

出資交渉の中でキーエンスはジャストシステムの財務状況を知り、当初の小規模出資の話はより多くの株式比率と役員派遣を伴う条件へと変わっていった。受け入れれば筆頭株主の地位を手放すことになる。

言葉を換えれば、初子と二人でここまで育ててきたジャストシステムを実質的に手放すかどうか。私たちはその決断を迫られたのだ。

正直言って散々、悩んだ。悩まないわけがない。だが、私たちの選択肢は限られていた。

我々はキーエンスを引受先とする45億円の第三者割当増資を決めた。キーエンスからの出資比率は43.96%となる。私は会長に、専務の初子は代表権のない副会長に退くこととなった。

後任社長には創業期に徳島大学歯学部の学生時代にアルバイトとしてジャストシステムに加わり、一太郎の開発を切り盛りした福良伴昭君が就くことになった。私と初子からキーエンスに出した条件のひとつだった。

無念だったがここまで育ててきたソフトウエアを、海外企業ではなく日本企業に渡せたことに安堵の気持ちが大きかった。

29歳のサラリーマンだったあの日。初子を送った後の車中でハンドルを握りながら眺めた姫路の国道2号の光景。「日本を支えているのはここにあるような中小企業だ」と強く思った。吉野川の大河に自分の人生を見立て、「同じアホなら踊らにゃソンソン」と自らを奮い立たせて起業に踏み切った。

契約が取れず、いたずらに時間だけが過ぎていった創業期の日々。初受注の日に初子との結婚に反対したおばあちゃんと号泣したことは、忘れられない。そして私と初子は一太郎という画期的なかな漢字変換機能を備えたワープロソフトで、コンピューター業界に名乗りをあげた。私たちを支えてくれたのは、徳島のちっぽけな会社に集まった若い社員たちだった。

そんな歩みもここまでだ。私と初子はジャストシステムを卒業した。この時、私は60歳。だが、ここで二人の挑戦が終わることはなかった。

 

福良伴昭氏(右端)らと(2009年、左から2人目が筆者)