(3)瀬戸内
中学成績トップ、落とし穴
大学要項を見落とし電気工学に
小学5年で放送機材に魅せられた私は中学でも放送部に入部した。ただ、2年生になると担任の女性教師に引っ張られるように合唱部に入部することになり、放送部との兼務となる。この頃から音楽が好きになった。
自分で言うのもなんだが勉強はよくできて、成績はずっと学年のトップだった。当時の新居浜東中学校ではテストがあるたびに成績順で名前が張り出されるのだが、2年生の時に一度だけ2位になった以外はずっと1位だった。
小学生の頃から機械が好きで数学や理科が大の得意だったことが奏功したのかもしれない。まったく勉強熱心ではなかったのに成績は良かった。これが高校に入って落とし穴になるのだが……。
高校で打ち込んだのが勉強ではなくブラスバンド部だった。私の担当はトランペット。我々にとっての晴れ舞台は野球部の応援だがチームは弱く、いつもあっという間に試合が終わってしまう。
本番が物足りないわりには練習には熱心に打ち込んだ。農村とはいえ家で吹くと近所に迷惑なのでいつも自転車に乗って海に向かった。新居浜市沢津町の自宅からは北に1キロほど走れば瀬戸内海が見える。
海岸まで行けば、だだっ広い燧灘(ひうちなだ)だけが目に入る。このあたりは瀬戸内海にしては島が少なく、どこまでも澄んだ海の青色が広がり、はるかかなたで空の青と交わっている。そこで誰に気兼ねすることもなく、ただただ思いのままにトランペットを吹くのだ。
金色のトランペットから放たれる音色、頭上を渡る鳥の鳴き声、そして瀬戸内海から絶え間なく打ち寄せる優しい波の音――。それが空と海に吸い込まれていく。私にとってまさに青春の一ページを彩る光景である。今思えば、なんとも甘美にしてぜいたくな時間だった。
ただし、その代償というべきか、成績のほうは中学までのように学年のトップを快走とはいかなかった。実は今でも妻と妹から「あなたは中学まで努力もせずに学年トップになったのがダメだった」と言われる。楽観的な私は「旧帝大でも行けるだろう」と考えていたが、根拠のない自信だった。
将来は映像や音楽の仕事がしたいと考え、九州芸術工科大学(現九州大学芸術工学部)を受験した。学科と実技を組み合わせた試験だが、学科のほうの出来が悪かったようで不合格となった。
浪人生活をへて考えた。当時は2浪すると奨学金の資格がなくなってしまう。前回で述べた通り、父は私が幼い頃から病で入院することが多く、家計は母が支えていた。失敗は許されない。
もちろん根拠のない自信などにすがる余裕はない。さらには実家から近い国立大学へと思って受験したのが愛媛大学だった。
晴れて合格したのが工学部の電気工学科だった。本当は音楽や電子工学を学びたかったのだが、当時の愛媛大には該当する学科がない。そう思い込んでいた。実は募集要項には電子工学科が新設されることが明記されていたのだが見落としていたのだ。
「しまった!」と思ったが後の祭りだ。それでも電子工学を勉強しようと入ったサークルで出会ったのが後の妻だったのは、運命のいたずらと言えばいいだろうか。