(11)徳島で創業

出口ない暗いトンネル
1台1000万円超、受注の気配なく

 

妻・初子の実家があるのは徳島市の中常三島町という町だ。吉野川の河口に近く、すぐ隣には徳島大学のキャンパスがある。玄関脇にある応接間がジャストシステムの最初の本社となった。

 

ソファや机、電話があるだけで、特にオフィスらしいものがあるわけではない。少ししてからコンピューターを置いたが、当時のものは今と違って机ほどの大きさでドーンと場所を取るため、それだけでもう応接間は手狭になってしまう。

創業記念日は1979年の7月7日。七夕の夜に橋本家の皆さんと家で食卓を囲んでいる時に、私が「きょうを創業日にしよう」と宣言したからだ。

前回に触れたように初子と二人で創業したジャストシステムは、日本ビジネスコンピューター(現JBCCホールディングス)と代理店契約を結んでいた。JBCCのオフィスコンピューター(オフコン)を地元の企業に売り込むことが私の仕事だ。

大阪での営業研修と同様にまずは足を使ってのどぶ板営業だ。カタログを持って地元企業を片っ端から回っていく。「総務部長さんにお会いできないでしょうか」。そう言って受付で頭を下げてお願いする。そこから先へは、なかなか進めない。

ここまでは大阪時代と同じだが、違うのは何度でも同じ会社に行くということだ。門前払いのようにあしらわれても「失礼しました。また来ますので」と言って笑顔で引き下がる。それを何度でも繰り返すのだ。

会社を立ち上げて最初にやったことは車の買い替えだった。姫路でのサラリーマン時代は青の車に乗っていたのだが、それでは営業車ぽくないだろうということで白のシビックに替えた。私はホンダ車が好きだったからだ。

そんな毎日が過ぎていったが、もうひとつ大阪時代と共通していることがあった。受注どころか商談が軌道に乗る感触すらつかめないということだ。何日かに一回くらいは「それなら話を聞きましょう」と言ってくれる。でも、そこから先に進めない。

当時のオフコンは1台1000万円以上もするような高額商品だ。話を聞いてもらっても、なかなか成約には至らなかった。

会社といっても私と初子の2人だけ。家に帰ればいつも妻の祖母・義子さんと世間話だ。私が「きょうもダメでした」と言うまでもなく、おばあちゃんは察してくれたのだろう。いつも「おかえり、かずさん。きょうはこんなニュースがあったよ」と話題を振ってくれる。

明治生まれのおばあちゃんは女学校を出て実家の米屋の経営も手伝っていたことから、経済に明るかった。そもそも徳島に帰ってコンピューターの仕事をしたらどうかと言ってくれたのも、このおばあちゃんだ。初子との結婚には最後まで反対されたが、いざ夫婦となり起業すると、ずっと支えてくれた。

それでも、受注が取れない毎日がただただ過ぎていく。

「いつまでこれが続くのか。本当にこのままこの仕事を続けていて大丈夫なのか」

徐々に追い詰められていく。たまにカタログを見てくれる会社と出合ってなんとか精神状態が保たれる。それでも商談が先に進むことはなく、また振り出しに戻るのだ。

出口が見えない暗いトンネルの中を歩き続けるような毎日に光が差したのは、徳島に来て半年後のことだった。

当時のオフコンと