(21)試練

深刻なバグ、無念の回収
一太郎4は「急ぎすぎた」

以前にも紹介したが「一太郎」は当初からお客様の声も反映させて次々とアップデートさせていき、他社の追随を許さない戦略をとっていた。そのたびに工夫と改良を重ねたが私にとって最も思い出深いのがバージョン4であり、正確に言えばその改良版であるバージョン4.3だ。

 

今も一太郎と言われて真っ先に頭に浮かぶのが「4.3」という数字だ。

「好事魔多し」とはよく言ったものだ。我々は日本語のワープロソフトとして独占的な地位を築いたが、その後に待っていたのは大きな試練だった。

「三太郎」の愛称で親しまれたバージョン3は31万本の大ヒットとなった。その発売から2年近くがたった1989年4月に発売したバージョン4は、それまでの一太郎とは一線を画すような機能を搭載した。

ジャストウィンドウと名付けたウィンドウシステムを採用し、グラフィックソフトの「花子」やデータベース管理の「五郎」などをひとつの画面で同時に使えるようにした。一太郎を中心に、色々なアプリケーションを後からどんどん付け足していけるような仕組みだ。

決して色々な機能をぎゅっと詰め込んだ発想ではない。ワープロを使うユーザーなら今度はマウスを使って絵も描きたいと思うだろうし、表計算ソフトも使えれば便利だなと考えるだろう。そんな要望を先取りしたのが、バージョン4だった。

現在のパソコンでは当然のような使われ方を、当時から想定した野心的なソフトだったが、ひとつ大きな問題があった。

当時のパソコンの内蔵メモリーは640キロバイトが主流。バージョン3までの機能なら快適に使えたのだが、基本ソフト(OS)のようなソフトにまで進化させたバージョン4を十分に使いこなすには、この容量では足りなかった。

そこで自社でメモリーボードを開発して発売したが、これが8万円もしたため多くの批判を受けることになった。バージョン4の機能が少し先を行きすぎたのだ。それでも発売当初から売れ行きは好調だった。野心的な機能を支持してくれるユーザーの存在は、我々にとっては大きな支えだった。

しかし、問題はハードのメモリー不足にとどまらなかった。もっと深刻な事態が起きようとしていたのだ。

発売してからしばらくたつと、サポートセンターに苦情が相次ぐようになった。パソコンで一太郎を使っていると突然、動かなくなってしまったというものだ。一太郎バージョン4のプログラムに複数のバグ(不具合)が存在していたのだ。

日がたつにつれて電話がじゃんじゃん鳴るようになる。サポートと営業の社員たちが対応してくれたが、謝るしかなかった。

実は、バージョン4は開発を急がざるをえない事情があった。日立製作所のパソコン「PROSET」に標準搭載することが決まっており、その発売日に間に合わせる必要があったのだ。

ただ、それも言い訳にはならない。私は社員を集めて「私が発売を急ぎすぎた。申し訳ない」と頭を下げた。

バージョン4は店頭から回収することになった。断腸の思いだが、こういう時こそ会社の真価が問われる。社員総出での巻き返しが始まった。

社員総出でバグ対策に乗り出した